自由気ままにいこう

思ったことをたまに綴る

ルーチンワークに陥るリスク

久しぶりの投稿です。

 

前回の投稿が、今年の1月。

それから、もう4ヶ月経ちました。

1月から、インターン先の会社では昨年までいたチームを離れ、本来のチームでの仕事が始まりました。

そのチームでの仕事も、早4ヶ月経ちました。今日は、そこで感じたことを綴ります。

これまで

そもそもなぜ、私がインターンを始めたのか。それは、バイトがクソつまらなかったからです。

私がやっていたのは、某大手流通会社の系列のスーパーマーケットでした。

毎回出勤すると、更衣室で会社指定のエプロンを着て、三角巾をつけて、ワークスケジュールと呼ばれる時系列での「やることリスト」をチェックする。その順番通りに作業を進めていく。作業の中身は、「レジ」「商品補充」「清掃」などでした。レジの当番ではない時でも、レジにお客さんが3人以上並ぶと、「ピンポーン♪」とベルが鳴る。

ベルが鳴ると、それまでの作業を止め、レジに向かう。レジ作業をして、人が少なくなると、元の作業に戻る。

この作業を毎出勤繰り返していました。スーパでのバイトを始めて半年、同じ作業を繰り返す「単純作業」に嫌気がさしてきました。

ちょうど、その時、大手メーカーでインターンをしていたIくんに「インターンをしてみれば?」と言われ、今の会社に入社しました。

単純作業になる

インターンを始めて半年、そこでわかったことがあります。

それは、インターンでも単純作業になり得る」ということでした。

仕事を始めてしばらく(1~3ヶ月)は、単純作業でも良いと思います。理由は、その期間は「仕事を覚える」ということが最優先であるから。何も知識や経験がない人は、まず「仕事に慣れる」ことが重要だと思います。

しかし、2~4か月経ってもなお、単純作業をしていてはダメだと思います。言われたことしかやらないのでは、わざわざインターンをしている意味はないのではないでしょうか。それは、私がかつて経験したあの「バイト」と同じものです。

前に、会社の社長Y氏が「そんなことをやっていては、直にロボットや中国人に仕事を奪われるぞ」とおっしゃっていたのを思い出します。

では、何で「バイト」との違いを生み出すのか。それは、「提案」です。

「僕(わたし)は、◯◯は××だと思うので、こうした方がいいと思います。理由は・・・・」みたいな。

その提案がうまくいくかは、わかりません。でも、提案をしないでいるのはいけません。

もしかしたら、その提案によっていい結果を得ることができるかも。それが、必ずしも「正解」がないものだとしたら。。。そういう観点からも、単純ではないことをすることが大事なのではないのでしょうか?

「正解を当てに行くな」と上司のK氏に言われたこともあります。

終わりに

私は、アルバイトすべてが単純作業だというつもりはさらさらありません。

バイトを楽しんでいる人もいらっしゃるでしょうし、金稼ぎのためのバイトだからそんなの気にしないという人もいらっしゃると思います。

ただ、単純作業を来る日も来る日もしているのでは、つまらないと思います。そこに、+αとして、いつもとは違ったものをやることで、何かが見えてくるのではないでしょうか。

 

 

 

満足の作り方

実り多き一年、でも・・・

2015年も気付けば、終わり。

一年振り返ると、いろいろなことがあった。

人生初のバイト(スーパーマーケット)をして、大学に入学して、最高の友人に出会っった。教会学校のボランティアを始めて、子供達と触れ合った。

そして、単純作業のバイトに嫌気がさし、友人にインターン紹介会社Via Careerの永渕さんを紹介してもらい、その後キュービックホールディングスインターンを始めた。周りにインターンをしている人がほとんどいなかったから、不安もあった。でも、いざ始めてみて早4ヶ月、もっと早く始めれば良かった。そう思った。まだまだ自分で成長したとは思ってはいない。何か自分が一つのことを成し遂げたその時に実感できるんじゃないかな。

また、NPO法人万年野党の学生会員となった。高橋洋一先生や原英史さん、堺屋太一さんなど、普段会うことのない方とお会いすることもできた。非常に良い出会いをした。

一方、政治や経済が好きで内向的なせいかはわからないが、あまり友人は多くない。また、周りからか「変人」と扱われることが多々あった。今でもそれは変わってないと思うけど笑

自分でも「まだまだダメだな」と思うことも多かった。納得のいく1年が送れたかと言われると、疑問符がつく。そんな1年だったと思う。

 

f:id:dshimada:20151228134922j:plain

秋の京都旅行にて

まだ見ぬその未来

来年1年、またその先に一体どうなっているのか。

 

そんなのはわからない。

だって、1年前とか3年前でも、今自分がこうなっているなんて、思ってない。

ましてや、大学1年生で会社で働いてるなんて笑

 

だから、この先、まず来年は日々自分自身と向き合うことを目標にしたい。満足のいく1年を目指す、だって、満足のいく1年なんて送れるはずがない。誰もがみんな何かしらの「悔い」があるからね。

あと、幅の広い人間になる!政治や経済というお堅いもので、周りの人が距離を置いてしまう。だから、もうちょっと「趣味(?)」の幅を広げて、いろいろなものにも興味を持ってみようと思います。

日本の凄さを伝える番組よりも劣りを伝える番組を

昨今のテレビ番組には、ある傾向があると感じた。
それは、「日本の◯◯はこんなにすごい」「 外国人が日本を見るとココがすごい」といった一種のパトリオティズム愛国心、郷土愛)を盛り上がらせようというものだ。たしかに日本の技術や文化、日本人の精神は、世界に誇れるほど評判は高く、高い水準のものであることは確かだ。しかし、日本には、世界標準に届いていないものもある。 例えば、先日のインドネシアの火山対策がそうである。そのほかにも、政治や経済、その他の様々な分野にまだまだ世界に遅れをとっているものがある。
日本あるいは日本人の優秀さをクローズアップすることもよいが、逆に世界に日本はこれだけ遅れをとっているものにもクローズアップした番組があってよいのではないだろうか。テレビ朝日系列の報道ステーションでは、それがクローズアップされた特集が取り上げられていた。一時期、福島第一原発事故の際にはヨーロッパの使用済み核燃料処理対策をクローズアップしたものが盛んに取り上げられていたが、私は、もっとこのようなものが増えてよいと思う。変にプライドを持つ必要は全くなく、劣っているものは認めて、世界標準に追いつき、世界最高水準を目指せばいいだけなのである。

シリアにおける邦人テロ事件について

 この度のシリアにおける邦人テロ事件において、犠牲になった湯川遥菜さんとジャーナリスト後藤健二さんのご冥福を心からお祈り申し上げます。後藤さんは、

 戦場における子供達に焦点を当て、その現状を我々日本人にさまざまな形で伝えておられました。私は、後藤さんがISISの支配地域に入る前の映像の最後の言葉が頭から離れません。「何が起こっても責任は私自身にあります。どうか日本の皆さん、シリアの人たちに何も責任を負わせないでください。よろしくお願いします。まあ、必ず生きて戻りますけどね。よろしくお願いします。」この「必ず生きて戻る」という言葉を聞き、今回のような事態になってしまったことの後藤さんの悔しさ、無念さを考えると言葉にもなりません。また、ヨルダン人パイロットであるムアーズ・カサースべ氏が無残にも焼殺されるという悲しい出来事に激しい憤りを覚えます。イスラム教においては、遺体を焼殺することは、アッラー(神) 以外はしてはならない事であり、「死後の復活」を妨げるとされていることから、通常は土葬が行われます。しかし、今回のISISによるカサースベ氏の焼殺は、イスラム教の教えに逸脱するものであると言わざるを得ません。 このような非道かつ卑劣極まりないテロ行為が二度と行われず、後藤さん、湯川さんの望んだ平和な世界が実現することを望むばかりです。

STAP報道のメディアの罪

非常に痛ましい出来事が起きてしまいました。
今日8月5日、STAP細胞論文の著者の一人である理化学研究所発生・再生科学総合研究センター(CDB)(現:理化学研究所多細胞システム形成研究センター)副センター長笹井芳樹氏が先端医療センター内で自殺するという悲劇が起きた。

STAP論文が発表された1月に、メディアは大々的に報道し、賞賛した。しかし、社会全体で、STAP論文の真偽性が問われるようになると、報道の立場を変え、攻撃的立場となった。今思い返せば、そのときの報道は、おかしかったと私は思う。その報道は、ユニットリーダーである小保方氏の記者会見時の服装や化粧にクローズアップするほどひどかった。その結果、環境評論家の武田邦彦氏も自身のブログでおっしゃているが、NHKの記者が小保方リーダーを追いかけ回し、全治2週間の怪我を負わすということも起きてしまった。改めて考えると、もうその事件によって、メディアのSTAP細胞に関する過熱した報道の警鐘がならされていたように思える。もしかしたら、そのずっと前からならされていのかもしれない。警鐘は、そのことより前に、鳴らされていたのかもしれない。そうにも関わらず、今回のような日本の大事な研究者を失うことになってしまったのは、非常に遺憾である。

私たちは、メディアの過熱報道によって、笹井副センター長が亡くなられてしまったという大変悲しいことが二度と起きないように、日々伝えられる報道をそのまま受け入れるのではなく、よく考えることが必要である。また、メディアは、「第4の権力」と言われるほど私たちに強く影響を及ぼすものになったのであるから、そのことをよく自覚し、人を自殺に追い込むような報道をしないよう徹底しなければならない。私は、できることならば、メディアはこの事を謝罪することが必要であると考える。
この度亡くなられた、笹井先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます 。
私は、世界に誇る研究者 笹井芳樹先生を絶対に忘れません。

※記事投稿にあたり、再編集を行いました。

インドネシアの火山対策に学ぶ、日本の火山対策

先日、報道番組の特集でインドネシアの火山対策が取り上げられていた。

インドネシアは、太平洋を囲むように火山が並ぶ環太平洋火山帯の西側に位置し、127もの活火山がある火山大国である。そのインドネシア最大の島、ジャワ島の東側にあるケルート山が2014年2月に噴火した。その規模は、2014年9月の御嶽山の噴火の500倍であった。しかし、死者は一人も出なかった。これを生み出したのは、インドネシアの優秀な火山対策でした。

ケルート山は、有人観察所があり、そこでは2人体制で24時間監視している。また、毎日パトロールし、実際に目や耳、鼻で火山の状態を観察している。その日々のデータは、国の機関である火山・地質災害防災センターに送られている。この組織では、研究と火山監視の両方の業務を一括で行われ、ここで働く研究員の多くは、日本で火山研究を学んだ人たちであった。このような組織が世界標準なのだそうです。

すなわち、日本には、外国人留学生が学びに来る程高度な知見があるにも関わらず、その実力を十分に活かしきれていません。それは、世界標準である研究と監視と防災を一括で行う組織がないからです。現在の日本では、監視は気象庁で行われ、研究は大学で、防災は地方自治体で行われるという縦割り行政になっています。実際に、御嶽山噴火に関しても、気象庁はその兆候を感知してはいたものの、そこには専門家がいなかったそうです。もし世界標準の組織があったら、 被害を未然に防げたかもしれません。

つまり、日本には高度な知見があったが、研究と監視と防災の一体型組織がなかったがために、御嶽山噴火に十分に対応することができなかった。そこで、早期にそうした組織を設立することが必要であると思います。せっかくこれだけ世界的にも注目される知見を我が国はもっているのですから、 活用しなければもったいないと思います。いつ起こるかわからない火山噴火というものに、国としてどう向き合っていくのかを今考える時であると思います